• Harumi

スパークジョイな日々

Netflixで「人生がときめく片付けの魔法ー KONMAIー」を見て、私の片付けに再び火がついた。この家に住み始めて丁度1年。最近、物があることに居心地の悪さを感じてきたのは、このパンデミックの中で単調になってしまった日常に「スパークジョイ」が必要だからか。


そういえば、2019年、コンマリさんの生講演を聞く機会があった。


とても穏やかで落ち着いてらして、存在そのものがキラキラしていた。綺麗で高価な身なりや、またその名声から出る華やかさいったものとは全く別物の、あれは内側からのオーラだと思う。


さて、スーツケース2つで始まった生活も、気づけば物が増えた。


最低限の生活必需品を買い揃えるとき、私も大事にしたのは「スパークジョイ」だったはずが、なんだか要らないものがたまっている。物との関係性にも、どこか「卒業式」という循環を定期的に迎えることが必要なのか。


とはいえ、必要用品でさえ持っていないものは、多い。


掃除機、炊飯器、その他諸々。「〇〇くらい買いなさいな」と周りからもせっつかれるが、鍋でご飯を炊く生活は、海外生活の年数に比例していて、不便さを感じてないのが先なかもしれない。


便利だけど無くても過ごせるものって、想像以上にあるものだ。


それと、最近切実に感じるのは、年老いた母やその周り見ていると面倒な家事をするということは、自立している自信であり、また生きる動機となっている。これを今の内に習慣にしてしまうこと。もっといえば、あえて面倒でもシンプルな方法でそれらを習得してしまうことは、老後生活を楽しく過ごすコツではないだろうか。


そもそも、「シンプル生活」もやってみると意外な気づきがある。


ご飯の炊けるのをじーっと見ている間は、真面目にお米と対話していることの方が多いし、床に這いつくばって拭き掃除なんかしていると「無」になる。これを面倒とみるか瞑想とみるか。



最近読んだ本、「ビックリインド人の頭の中ー超論理思考を読むー」という本の中にあった「ない」が「ある」というインド哲学。


「掃除機」が「ない」ではなく、「掃除機がない」が「ある」。


なんだか言葉の綾のようだけど、少しだけ「ある」の方へ意識を向けるとき。ものを持たないではなく、スパクージョイな物に囲まれる生活。手間暇をかける生活ではなく、工夫と創造性を生む生活。


「無い」は「ある」なのだと改めて生活を見渡せば、今ここ、全ては、「スパークジョイ」なのかもしれない。



Let's do it!



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