
Harumi
意図はなくとも
自粛生活だから出来なくなったこともあるけれど、逆に、だからこそ出来たことも多いね。皆さんのそれは、何かしから?
私はいくつかやっていることがある。
総菜作り、脱小麦、16時間断食など。やってみたいなと思いつつ後回しにしていたものを、大それた決意もなく出来たのは、この自粛生活が後押しているように思う。
どれも何となく始め、それほどストイックでは無いが、かれこれ数ヶ月になる。
ただ、特に変化はないようだ。(笑)
それなら元のライフスタイルに戻るというのもあるが、何なくここまでやってきたという悔しさと習慣化もあってか、続けている。どんなことがあったら食べるかなと自分に問いかけてみたが......、答えはなく。ふと思う。

そもそも、人生、全ての行いに意味や意図を持たずとも良いのではないだろうか。
何のためにやっているか、その「目的」とか「意図」、それらがないものに、自分を合わせみる「チャレンジ」。
子どもの頃、友人と歩きながらお喋りをしていて、不意に誰かが、「ここからあの店まで競争」といって走り出し、追って全力で走りだした、あのチャレンジに似た。
こうした、なんの意図もないことでも振り返る時がきてみると、「あんなことしてた」という思いの奥には「生きていたという証」が見えてくる。
一言に想いといっても、そこにはいくつもの思想のレイヤーがあって、思索と共にその抽象度も変わってくる。
この辺り歳を重ね分わかってきたように思うが、決して上や先ばかりを見ていたんじゃ見ることができないような思索にたどり着けるのも、この自粛生活だからこそではないだろうか。
あんなことしてたという思いの奥で、「しっかりと自分を生きている」を味わっていく。
さて、今日も続く。