• Harumi

会話の狭間で

とても暑い日の午後。

暑さしのぎで入ったある喫茶店での光景。



私がコーヒーを一口飲んだあたりで、飛び込むように入ってきたお客さん。席は随分と遠かったが座るなり、「やっとのところで一つ息ついたところ。暑いしね、疲れたわ。今日は洗濯機3回も回して。いや〜、もう大変」と店主に話し始めた。



恐らく常連さんなのだろう。とても広い店内には私と他に一人しかお客さんはおらず、その声が響き渡った。衣類の分別が大変だってこと。先日は、洗濯ものを干し外出した途端、雨がふりやり直したなど、話は止まらない。



一つ一つ丁寧にいれると評判のコーヒーが、そのお客さんの前に出されても、まずは、この思いを吐き出してしまわないと一口も飲めないとばかりに、話が続いた。が、しかし、それはどこまでも「洗濯」の話しなのだ。



ふっと思う。人は、なぜ、自分の話を聞いて貰えると思っているのだろうか?全く余計なことではあるが、こんな問いがポロッと出た。



そこにある種の苛立ちを感じたのは、店主の相槌や切り出す話が空中分解する様子に、シンパシーを感じたからだけではない。全く知らないこのお客さん個人に向けたものでもない。



これまでずっと周りとの「会話の在り方」に大きな疑問を持っていても、その理由すら言葉にできず。その苦しみに再び触れたからだと思う。




あらゆる人間社会の問題は、コミュニケーションから来ているといっても過言ではないと思っている。



心の内を聞いて貰えるとか、ノンバーバルなコミュニケーションの上にも温もりを感じられることがあったならば、ニュースとなった事件も起きなかったかもしれないと思うほど。



たった一人でも話せる人がいるということで、どれだけ心救われ、癒され、また明日への活力にしていけているのか計り知れないとわかっている。『聴く』ことを仕事としているだけに強く思う。



残念ながら、聞いてもらうことが癒しと体感していながらも、普段の関係性の中で、聞くことにしんどさを感じるのは、どうしてなのだろうか。



話の内容の深刻さや会話の上手下手、聞き手の心の状態に関係なく、その発話する者が持つエネルギーが、ただ一方向に流れ込むといったような感覚。さらに悪化させるのは、その立ち位置がいつの間にかパターン化してしまっていれば、尚のこと。



聞くことが、信頼や愛の証と思い込んでしまうことは、ある種の図々しさであり、聞かないことがより大きな愛と信頼を示しすこともある、ということを心に留めておきたい。



だからこそ、会話の在り方が関係を映すのは間違いない。



人と話すことで自分の心が軽やかになる。この「お互い様」に見える循環が、「互いに真の愛と信頼に満たされる循環」になれたなら。それにしても、あまりにも大きな問題で到底一人じゃ向き合うこともできなく、その道の専門にお任せすべきことなのかもしれないが。



やっと聞こえてきたコーヒーをすする音ともに、オーナーさんがすーっと姿を消した。



会話の在り方。それはどうあるものなのだろうか。



つづく。



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