• Harumi

90年代らしい時間の中で

先日読んだ、「信念に生きる」ネルソン・マンデラ氏の行動哲学という本の後半にあった、マンデラ氏の専属鍼灸師として働いていたという日本人女性の事が気になり、彼女の書かれた本、「南アフリカらしい時間」という本を読んだ。


とても軽やかさと勇ましさの中にとても丁寧な時間が流れているような。吸い込まれて一気に読んでしまった。


先日読んだ『アマン伝説』では「偶然を呼ぶ」という表現が出たけれど、こちらは偶然のオンパレード。なんと言ったらよいのか、突発的に起きる出来事に無駄に抵抗することもなく、一つ一つ適応していくことこそ「偶然」というイベントで、「日常は偶然でしかないのだ」と認識できるような。


例えば、旅行などで家を開ける時、盗難を避けるために友人に滞在してもらうそうな。場合によっては、友人のそのまた友人にまで声をかけるのが一般的だという南アフリカでの生活。


そんなご縁から、約束の日に何時間もかけて友人の友人の家に行ったら、預けらるはずの鍵がなく。急遽、そこからそう遠くない(と言っても1時間以上)友人の、これまた会ったこともない友人宅へ行って泊めてもらい、そこでまた偶然に出会うというような話が一杯あって。


なんとも勇ましさが心地よい。


私にとっての南アフリカの接点は、ほとんどなく。イギリス人の友人のお父様から聞く(よく出張に行かれていた)話や、お友達の家族の住むケープタンの優雅な側面。それとは真逆でハロッズにいた頃に出会った南アフリカ在住の女性から聞く、女性が南アフリカで生活することの大変さが衝撃的だったこと。


90年代は、私のようなものでも気軽に海外に行ける時代になったとはいえ、やはり南アフリカは遠い遠い国で、一人でいくなんて想像しなかった。


そんな中で突発的に、かつ、丁寧に偶然が流れて、それが「日常」となっていく著者の植田さんの生き方。どんな思いでいたのだろうかともっと聞いてみたいと思った。


振り返ってみれば、90年代は、旅ではなく生活の場所として海外を選ぶ人が増えていた。もし、あの頃にブログなどのSNSなどがあったら、どうだったのだろう。




こうして「南アフリカらしい時間」を読みながら、私の南アフリカの言葉から湧いてきた心の中の映像は、もちろん、色濃く描かれているであろう植田さんが見ていた南アフリカの日常も、もう、いまは何処にもない。


「偶然と儚さが織り成す時間」というのは、何とも豊かなことではないだろうか。


話が少しずれるが、個人のHPよりアメブロやNoteと言ったサイトの方が読んでいただける機会が増えるよと教えてもらう事もあるのだけど、このサイトは、私が継続できなくなれば消えていくもので、永遠にネット上に残ってしまわなくてもいいと思うのは、どこかそこに「儚さ」を持ち合わせたいと願う。


せっかく書くのだから、本来であればもっと多くの方に読んでいただけるように広告などマーケティング的努力が大事だとは頭ではわかっているのだけど、ちょっとしたお手間をかけながらも、そこにある種の「偶然性」を持ち合わせ頂きたいと願うのも、あの90年代の空気感にどっぷりと浸かったからかもしれない。


90年代というのは、インターネット社会になる一歩手前の、アナログが故の豊かさを味わえる最後の時代だったのかなと思う。記憶の中の日常の輝きは失われることなく、自分の中に眠り続ける。


まだまだ、偶然と儚さという時間を纏っていたい。





後記

植田さんの著書は、「手でふれた南アフリカ」が先に出版されていたようで、こちらの方がアフリカに行くきっかけ、マンデラ氏との出会いなどが書かれていますので、こちらもお勧め。


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