• Harumi

運。絶妙に取り巻く全て

秋冬物のパンツの裾上げができたと連絡を受けて取りにいった。近頃はお直し代も結構かかる。裾上げくらい自分でやればよいと思うが針セットを持ち合わせておらず、エクストラの出費は痛いが仕方ない。


仕方ない......。本当に?と自分にツッコミ、改めて考えてしまった。


それぞれの長さの服を作るのはコストがかかり過ぎるのはわかっているが、丈が一般より短い者はプラスでお金を払わないと服が着れないってのは、本当のところどうなのだろうか。


そんなことを思うのは、実はいま、悪戦苦闘しながらマイケル・サンドル教授の『The Tyranny of Meirt(実力も運のうち 能力主義は正義か?』英語版を読み始めた。


図書館よりお借りしたものの、やはり難しいので動画はないかと探してみたら、とても良いもの(サンデル教授、東工大「利他プロジェクト」と対話する)があった。そちらを見ながら改めて様々な不平等性や努力についてを考える。


生きる上で、私たちの自責とする範囲は、本当のところどこなのだろうか。


私が初めて自分の力を考えた原体験は、幼い頃。体の弱かった私は、疲れやすく、すぐに熱を出す。小学校に入っても体躯の授業は「見ている時間」で、みんなと同じようにやりたいのにままらないことだった。


幼い時の体が弱いという経験は、その後のメンタル、例えば自己否定や劣等感など影響があると本で読んだことがある。幼稚園の頃からそんなことに向き合って生きていたんだなと、自分のことながらシンパシーを感じる。


とは言え、振り返ると悪いことばかりではないと私は思う。


自分に無理をしないことや努力じゃどうにもならんこと、みんなそれぞれだってことを、早くから学んだように思う。(諦めやすさかもしれないがw)この辺は、人に対してもやや寛大でいられる。


さて、自己責任とか自助など言葉を最近よく話題になるが、我々の実力、努力とはどこまでが本当に自分の力だったと言えるのだろか。目に見えないだけに、本当にどこからなのだろう。



興味深いのは、自分でやってきた、頑張ったと自負する者たちは、そのあとで大きく3つに分かれるというところ。


  • 自分もゼロから努力してきた、あなたもできる!(自助)

  • 自分も大変だった、似た境遇の人たちを助けたい!(共助)

  • 自分の様にゼロから努力するのは大変、助けあえる社会にしよう!(互助)


どれも良い面と悪い面がある。ただ、自他共に安心して暮らし、たとえ失敗してもやり直せる社会というのは、どこを目指すのが良いのか見えてくる様に思う。


Receiving and giving gifts are the same thing.


先日、『見えない循環を思う』で、「つい、"〜してやった"と不満が出てしまうのは、こうした循環に自分もいることに気づけていないだけ。無意識にもその恩恵を分け合っているから、自分が考えたと思っていることも、実は絶妙なタイミングでた恩恵の産物なのかもしれない。」ということを書いた。


サンデル教授の本にあるように、自分の努力や実力は、そもそもそれを発揮することが出来る環境や状況に恵まれた、つまりは「運」。


親からの援助なく18歳から自立したこと。いくつもバイトを掛け持ちし、やっとの思いで資金を集めて英国に渡ったこと、などなど。これまで自分が一人で頑張ったと思っていたことも、実は、そういう努力ができた環境(心境/体力/状況の整った)に居たということ。


そうすると「選択」したのは自分かもしれなが、その選択ができる環境下にいたことは、運。努力も実力も、そもそもいろいろな条件が揃っていた上であることがわかる。誰ものがスタートラインに立つ時点で、目には見えない恩恵やハンディをどれだけ抱えていたのか。


運。その絶妙に取り巻く全て。

このことは、目を見開いて考えたい。

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